■私と漢方薬
「漢方が救う人体危機」あとがきに代えてより
八人兄弟の四男として一九一三年四月十八日に誕生した私は、一人くらいは軍人にしたいと考えた両親の希望から、渡邊家の男子は一字名としたので、武と命名された。しかし七歳のとき右足の関節炎を患い、両親の懸命の努力で京大・阪大・名古屋大学の治療も効なく関節を固めてしまうより方法がなく、軍人志望は断念するばかりか、小学校の入学も一年遅れとなった。それでも負けず嫌いのやんちゃ坊主だった私は、自転車と柔道・スキー以外は、水泳・ボート・ヨット・剣道・乗馬・登山・体操・軍事教練にも、人なみに挑戦した。
正座できない不自由さと子どもたちの冷やかしの罵倒の屈辱感を、いやというほど味わったとき、人間五体のどこが不自由でも一生不幸につながるものと、医学を志望したが、両親から足が不自由では医者はだめだと宣告された。
京都府立第二中学に入学して、博物学の丹信実先生に教えを受けて、私の進路は漢方の博物学である本草と決めた。丹先生のもとには,京二中博物学会と名づけた一年生から五年生までの動植鉱物の同好グループ活動があり、野外採集や京大の理学部にも見学に出かけていた。
博物学会の同窓会は鈴の音会と名づけられ今日まで継続され、先輩・同窓・後輩らは著名な博物学者・動物学者・医学者・薬学者となって互いに教えられ、見聞を広める幸運に恵まれることになった。
当時は薬学は東大の薬学以外は専門学校であったから、名門の京都薬学専門学校に進学した。先輩に生薬学で有名な木村雄四郎・高橋真太郎・藤川福二郎博士を輩出しているし、校長の藤井勝也先生は東大の朝比奈康彦門下で、生薬学の講義を担当され、薬用植物学は、二中の先輩の嶋田玄弥先生で魅力があったからである。
昭和十年卒業後に上京して、木村雄四郎先輩が所長をしておられた津村和漢薬研究所にお世話になった。和漢薬の研究ができると期待していたら、仙川にある大拡張中の附属の薬用植物園勤務で、中将湯原料薬草の大栽培で早朝から暗くなるまで、文字どおりの百姓仕事に終始した。
幸い昭和十一年から拓殖大学で偕行学苑の夜間の漢方医学講座が開講され、大塚敬節・矢数道明・矢数有道・木村長久・清水藤太郎・柳谷素霊諸先生の講義を聞く機会に恵まれ、その後、薬草栽培と本草の講師に加えていただき、昭和の漢方復興運動の同志として、交誼いただく光栄に恵まれた。
講義だけではあきたらず、臨床の勉学のために、有志を募って湯本求真門下のト庵荒木性次先生のお宅に通うことになり、医系では龍野一雄先生が加わり、帰りは遅くなるので履霜会と名づけられた。
昭和十三年四月,待望の東京帝国大学医学部薬学科の選科生として、朝比奈教室で生薬学を専攻できることとなった。
当時、大学で漢方薬などやるのは異分子で、異端者扱いされたものだったが、幸い朝比奈康彦教授と藤田直市助教授とは、漢方に理解があり、教室員に体調を崩した者があれば、近くに開業されていた湯本求真先生や、鍼灸では澤田健先生を紹介された。研究室には百味箪笥があって、処方箋をいただいて自分で調剤し煎じて服用するので、材料がなくなれば、赤門の高島堂薬局に行って補給することになっていた。さしずめ私は、湯本求真先生の処方箋運搬係で、湯本先生から臨床の実際について教わることが多かった。
朝比奈先生からくしゃみが出て困るが、漢方では何がよいかとご相談があったので、さっそく実験室で甘草湯をつくり、「漢方では忘憂湯(ぼうゆうとう)と申します。これで含嗽をし、鼻を洗浄してみてください」と申し上げて引き下がった。数日後にはくしゃみの警戒警報なしに、先生が実験室に現われるので、先輩の研究生から、あれは猫に鈴が付けてあったのにと、かえって大目玉をいただいた。さすがに先生からはよいことを教えてくれた、鼻風邪くらいならこれで一晩で治るよと賛辞をいただいた。
紫円や紫雲膏(しうんこう)の薬能について申し上げたら、さっそく一キロつくるよう申し渡された。すぐにご返事があって、紫円は子どもの下剤にはすばらしい、小児にひまし油を飲ますのは残酷だよと申された。
教室員だけにとどまらず医学部の教授の先生たちにも漢方薬を推奨され、後年、小林芳人医学部長が国際医学会で渡欧されるとき、胆石症の漢方薬を差し上げるようご下命があり、はじめて携帯用に柴胡桂枝湯加芍薬湯の水製エキスの顆粒剤を試製して効果をあげた。
後年のことだが、漢方に魅力を感じながら半信半疑の若い医学者、坂口弘先生から、本格的漢方に打ち込む機縁になったと告げられた。同じ治験でも大物と小物とでは、反応に相違がある。
昭和十六年朝比奈先生が定年を迎えられ、私には大阪の武田薬品の研究所に生薬研究室を開設する用務で推挙され、このときいただいた二つの指針が私の漢方薬の一生を通じての命題になった。
一つは「薬性ヲエラビ、能ク古人ノ規矩ニ従エバ、即チ何ノ病カ治セザラン」で、もう一つは英文で「Return to Drugs」であり、それにはちょんまげ時代の漢方ではなく、現代人の漢方への復帰でなければならないとのお口添えがあった。
東京の漢方研究所の諸先生とはお別れしなければならなかったが、大塚敬節先生のご紹介で、関西の漢方家の細野史郎・森田幸門両先生の知遇を得られ、その人脈で関西の著名な漢方家、新妻米郎・中野雅晶・中島大蘇・田村雄造・坂口弘・柴田良治・内炭精一・山本豊治先生らと漢方復興運動を共にすることができた。
赴任早々から太平洋戦争で陸海軍の医薬品現地自活の用務をうけ、北支那派遣軍貨物廠嘱託・支那方面艦隊療品廠嘱託として、終戦まで北京・天津・張河口・大同・上海で軍用の漢薬の製剤化と薬用資源の調査に当たり、健兵錠などの生薬製剤や漢方剤の紫円・紫雲膏・葛根湯・平胃散などが陸海軍病院で活用され、紫雲膏はドラム缶単位で生産した。
おかげで本草の本場で自生の薬草に接し、中国の市場で流通する漢薬の現状を知り、中医の診療の実際を見ることができて、戦場での死線を越えた数年であったが、生きた学問を学ぶ機会に恵まれた。
中医を訪問したとき、中文の「皇漢医学」が目にとまったので、手にとって見ていたら、著者の湯本求真先生を知っているかと聞くので、私の漢方医学の先生だと答えたところ、ころっと応対が変わって、丁重に扱われるようになった。
中国でも中医を廃止する機運があり、日本の「皇漢医学」が反対運動の盾になって北京・上海・香港各地で翻訳出版されたのである。
当時大覚寺門跡であった谷内清巖老師から賛詩をいただいた。
呉山楚水 跡縦横 採薬単身 万里の行
勲業十年 真の大士 利他の行願
蒼生を救う
当時としては真にお恥ずかしいことであったが、いまでは日本列島津々浦々から、山々を踏破し、中国では貴州省とチベット省以外は足跡を残しているので、清巖老師は私の将来を見越してくださったものと思われる。
戦後、武田研究所でのはじめてのテーマは、東大医学部小児科教室の託間武人教授らの人工栄養児の蜂蜜添加の研究の薬学的裏付けのために、蜂蜜の微量成分の研究であった。本草の記述や漢方の蜂蜜配合薬の科学的実証にもつながる研究課題であった。そのうえ宮内庁から朝比奈先生に正倉院宝庫の薬物の科学的調査を委嘱され、学界の権威とともに、千二百年前の中国の漢薬の実態にふれる千載一遇の好機に恵まれた。
それには、中国での戦時中の経験が大いに役立つことになった。学位は東京大学に提出した「蜂蜜の微量成分の研究」を撤回して副論文とし、京都大学医学部に「正倉院薬物の研究」を提出した。世間で私を蜂蜜博士とも、椿博士とも呼んでいるのは、こんな経緯があったからである。
京都に住んでいる地の利もあって、正倉院の香薬の調査、鑑真和上記念日中共同出版、嵯峨清涼寺の国宝釈迦如来像胎内香薬の調査、法隆寺古文書「医薬調剤古抄」の調査を委嘱され、見聞を広めることができた。
戦後は京都大学に薬学科ができ、生薬学会の前身の生薬懇談会が発足して、刈米達夫教授・木村康一助教授・木島正夫講師らと生薬学会の基盤をつくり、日本生薬学会に引きつづいて、翌年には日本東洋医学会が誕生し、和漢薬の医薬の両輪が整った。
昭和四十二年武田研究所の定年退職を迎えたとき、薬学の大先輩から第一薬科大学の生薬学の教授の要請と、鐘紡の伊藤淳二社長から薬品部門の役員の要職の申し入れを受けた。恩師の朝比奈先生には退任のご報告に参らねばならないので、今後のご指示を伺い進退を決めることにした。
予想に反して先生は鐘紡就任を指示された。当時の生薬学は生薬化学に偏り、いま、京都大学で木島正夫教授が、大阪大学では高橋真太郎助教授だけが、純正生薬学を固守しているのだから、君は大阪の鐘紡で民間側の柱になってやるべきだとの仰せであった。ここで私の後半生の大方針が決定的となった。
医薬学史上、京都の本草家として著名な小野蘭山・山本亡羊の事蹟をみると、本草家と同時にすぐれた漢方家であった蘭山は「医は拠るべきものは方なり、方は恃つべきものは薬なり」の遺訓を残している。
漢方の基本は本草学であり、本草学は臨床薬学であったから、江戸時代までは漢方家を薬師(くすし)と呼んだのである。いま開局薬剤師をみると専門の大学を出て、大衆の医療と健康に貢献する場がなく、薬種商同様の商売人に転落している。
彼ら彼女たちに漢方の知識を授けて啓蒙普及に努め、真の薬師に仕立てれば、薬局は活性化し、国民の福祉に貢献する正業となるではないか。鐘紡薬品を通して薬局・薬店の活性化のために日本全国を駆けめぐり、日本列島をおよそ百周、千八百回の講習会となった。
薬品会社の漢方には限界と制約があるので、昭和五十二年以来、医師・薬剤師・薬種商・鍼灸師・調理師・栄養士など対象を広めて、日中医薬研究会を組織して関東・関西・九州の三支部での活動をはじめた。二十数回に及ぶ訪中と学術交流、中日共同出版の功が認められたのか、平成四年に南陽の張仲景国医大学の名誉教授、平成五年に鄭州の仲景国医大学の名誉教授、陝西(せんせい)中医学院の名誉教授に聘任された。
昭和二十二年から同三十七年まで、厚生省日本薬局方制定委員会委嘱 第六第七改正日本薬局法制定に当たり、昭和四十七年には一般用漢方製剤承認審査委員を委嘱され、昭和四十九年薬務局監修の「一般用漢方処方の手引き」作成に当たって、厚生省指示の効能効果の不備を正した。
日本東洋医学会の誕生で、関東・千葉・北陸・広島・九州・四国と日本全国の漢方のお歴々とお付き合いが広がり、日本漢方交流会では、主として薬系と鍼灸の方々と検討会で会談し、和漢薬学会では医薬各科の専門分野の方々の目で、広く深く細く漢方薬は探られている。
これらの統一原理である陰陽虚実・五行原理の現代化と薬証の設定が恩師の指示にこたえる重大事として精進してきたが、紙面の都合でその一端が漢方のレーダーグラフの作成であることにとどめておく。
私と漢方薬については、大塚恭男・松田邦夫両博士が私の業績や履歴を調べたうえで、聞き手を引き受けいただいて「傘寿宝談1~3」(漢方の臨床)に詳記されている。なかでも、私が忘れていた昭和十五年五月にあった皇紀二千六百年偕行学苑五周年記念大講演会で、「傷寒金匱の薬物の再吟味」を神田の東京医師会館で講演した記録を示されて恐縮した。
私と漢方薬をたどってみると、私の運命の路線ははじめからお膳立てが決まっていたようなものであった。
よき師よき学友同志に囲まれ、恵まれた場と機会をあてがわれながら、それに応じた成果をあげられなかったのは、偏(ひとえ)にわが愚鈍と怠惰に拠るものと恥じ入るばかりである。
大阪に来て大和の大神神社(おおみわじんじゃ)の薬まつり「鎮花祭」には、神餞(しんせん)に薬草の百合と忍冬(すいかずら)が供えられ、各製薬会社の主力製品が神前に奉納される神事に参列した。
この古代からのくすり祭「鎮花祭」は例年、私の誕生日の四月十八日にとり行われている。 渡辺 武
■略歴
1913年京都府生まれ。東京大学医学部薬学科選科(生薬学)卒。薬学博士。武田薬品研究所主任、カネボウ薬品常務取締役、鐘紡漢方研究所長、神戸女子短期大学教授、近畿大学医学部講師、厚生省日本薬局方制定委員などを歴任し、現在、日中医薬研究会会長、社団法人日本東洋医学会名誉会員その他多くの漢方関係団体の顧問、理事を努めている。
■著作・監修書籍
平成薬証論 渡辺武 メディカルユーコン
漢薬構成比とレーダーグラフ 渡辺武監修 日中医薬研究会
漢方常用処方選定カード 渡辺武監修 日中医薬研究会
古希記念渡辺武著作集 渡辺武古希記念出版実行委員会
喜寿記念渡辺武著作集 渡辺武喜寿記念出版実行委員会
米寿記念渡辺武著作集 渡辺武米寿記念出版実行委員会
漢方が救う人体危機 渡辺武 立風書房
わかりやすい漢方薬 渡辺武 国際商業出版
まちがい漢方薬 渡辺武 大杉製薬株式会社
八味地黄丸~トシ(老化)をとらない漢方薬 藤平健・渡辺武 東洋医学舎
仁医麻鳥の漢方問答 日中医薬研究会
一般用漢方処方の手引き 厚生省監修(渡辺武編集委員) 薬業時報社
漢方医学大辞典 薬物編・薬方編 人民衛生局編集(渡辺武編集委員) 雄渾社
叢桂亭医事小言 原南陽 日中医薬研究会
抜粋方輿輗 上巻・下巻 有持桂里 日中医薬研究会